国連大学でのスピーチ(日本語)

ちなみに今、バングラデシュにいます。昨日、↓の投稿の日本語訳を作っていたら停電して全部消えてしまいやる気を失っておりましたが、なんとか気を取り直して作り直しました。 あいかわらず下手な訳ですがよろしければお読みくださいませ・・・

【Speech @UN uni on 20 Dec 2013 Japanese translation ver.】
本日のテーマでもあるグローバル化の影響について語ることは、バングラデシュやネパールをはじめとした世界中からの移民が人権や移住の自由について情報を発信し、経験を共有し、さらには移民たちが受入国や出身国にもたらした経済的な貢献について気がつくチャンスでもあります。 

私個人にとって海外への移住は医療的な必要性からでした。バングラデシュの田舎町、クミラで生まれた私は子供のころ体が弱く、医療施設の整っていなかったバングラデシュから1984年にシドニーへ移住しました。 そのころのオーストラリアは今とはまったく違っていて(もちろんバングラデシュとも大違いでしたが)、まったくの白人社会でした。
実際のところ、私がインド系女性に出会ったのは移住してから3年後、~シドニーとブリスベンを結ぶ道路沿いでバナナを売ってた~のが初めてでした。バングラデシュ人としての常識から、私は彼女はお金に困っているに違いないと思いました。(訳注: バングラデシュでバナナを売っているのは子供か、あまり裕福ではない人々です) 思わず私は今あるバナナを全部買い取りましょう、と提案したわけですが実は彼女は戦後すぐにバナナ栽培のためにインドから移民してきた家族で、なんと後ろに広がるバナナ畑をすべて所有していたのでした。

移民によって、オーストラリアの食卓は間違いなく大きく変わりました。 主にイタリア人、ギリシャ人、中国人、そして最近では韓国人といったさまざまなバックグラウンドを持つ人たちによってオーストラリア料理は花開いています。私が移住したころはオーストラリアの宗主国である英国と同じでBBQやポテト、パンにバターといった素朴な食べ物しかなく、こうした料理に辟易していた私はバングラデシュへ帰国するたびにカレースパイスを買って帰ったものです。 しかしそれも今は昔、移民たちの要望やノウハウを元に彼らの舌とオーストラリアのもつ広大な土地や技術が合わさって、今では各国の”ローカルフード”と思われていたバナナやマンゴー、レンズ豆やスパイスなどのメジャーな輸出国として世界中に売りさばいているのですから。

若い移民だった私にとって苦労したことの一つはバングラデシュ人としての自分を確立し、説明することでした。そのために厳密には正しいとはいえないことでも耳障りがよくてエキゾチックに聞こえることなら何でも言ってしまっていたような気がします。しかし次第に他の外国人たちにとっては私自身がバングラデシュそのものであり、どんな説明よりも私がどんな人間かというのがわかりやすい説明なのだと気がつきました。そのときから自分の一番よいところを出すように気をつける毎日が始まりました。

自分の幸せのためにもいつかはバングラデシュへ戻って仕事につき、何か有益なことをしたいといつも思っていました。しかし神様は別の道を用意していたようです。 シドニーで大学に入りなおして勉強していたときに今の妻に会いました。 彼女は留学生で、たまたま日本人だったのです。我々にとって東京、ダッカ、オーストラリアの距離と文化の違いはあまり大きな問題にはならず、共通していることは感謝し、違うことは一緒に乗り越えています。

私の人生は変わりました。 現在は日本へ移り住んでバングラデシュで自分がやりたかったこと、何か有益なことをするためにiimonプロジェクトをはじめました。このプロジェクトは政府やチャリティーとは一線を画しています。私たちはこのビジネスがバングラデシュにおいて我々の考える社会貢献とともにうまくいくことを願っています。

~大使館発行の雑誌と内容がかぶるため中略~

私はどこへ行っても幸せな移民です。なぜなら以前私の小父さんが教えてくれたように「郷へ行っては郷に従え」を実践しているからです。 日本にいるいま、日本のよいところは学び、逆にバングラデシュ人として共有できるよいところは紹介していきたいと考えています。移民した国にとって私は出生国の大使であり、とてもワクワクする役割を担っている、と思っています。